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シリウス
横浜ロイヤルパークホテルの70階。最上階にあるスカイラウンジ「シリウス」。
ホテルが日本一高いところにあるのだからその最上階のラウンジは日本で一番高いところにあるバーだ。

いやぁ、一面のきれいな雲!
ボクが訪れる日以外は絶景が広がることであろう。

02ラフロイグB
ライフログのダブル

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横浜ロイヤルパークホテル
ロイヤルパークは直訳すると恩賜公園なんだと思う。みなとみらいのどこら辺がロイヤルパークなのかはわからないが、横浜ランドマークタワーにあるのが横浜ロイヤルパークホテル
2012年現在日本で一番高いビルである横浜ランドマークタワー。その最上層階にあるのだから、日本一高いところにあるホテルと行って差し支えあるまい。高いところは嫌いなはずだが、横浜ランドマークタワーゲット!
とはいえ、雨男である。兵隊の位でいうと大佐ぐらいの強力な雨男ぶり…。せっかく景色を楽しみにきたのに、思いっきり雨雲につきまとわれてしまった。

01_初日_ランドマークタワー
上の方が霞んでいる

客室はタワーの52階から67階で、今回宿泊したのは53階であった。53階からの景色がこれ。

わー、一面のきれいな雲!

もうヤケクソである。外から見て上層階が霞んでいるということは、当然上から下も霞んでいる。すぐ目の前にあるはずの観覧車すら見えてない。

01_初日_53階の展望C
きれいな雲!

翌朝、どんよりしながらも全貌が明らかになった。なんと、ベイブリッジも見えていた。

02_2日_53階の展望C
本来の景色

東京方面を見ると爪楊枝のような棒。
拡大してみると東京スカイツリーだった。

02_2日_53階の展望A1
爪楊枝のような棒

02_2日_53階の展望A2
高いなぁ

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健康寿命
『厚生労働省は国民が一生のうちで健康面の支障が無く日常生活を送れる期間を初めて算出し、健康寿命を名付けて公表した。【中略】
健康寿命は、同省が行っている国民生活基礎調査で、日常生活への健康上の問題の影響を尋ねた質問に、「ない」と回答した人の割合や年齢別の人口などから、同省の研究班が計算した。』
読売新聞6月2日朝刊により

これは社会啓蒙のプロパガンダになるが、統計の資料ではないな。
日本には「健康のためなら命などいらない!」という健康オタクが少なからずいて、彼らの中には何の問題もないのに本人だけ健康に不安を感じている人も多い。逆に、「馬鹿は死ななきゃ治らない」的な楽観的不健康もいる。
どんなに上手に質問しても、日常生活への健康上の問題の影響なんて主観的な内容を取りまとめられるモノではないな。

『平均寿命との差が大きければ大きいほど、健康面に支障を抱えて暮らす期間が長くなるが、この差が最小だったのは、男性が秋田(7.79年)、女性は群馬(10.61年)。』
秋田が寿命の統計でよい数値を出すことは希である。ふと、ひねくれた読み解きをしてみる。

健康面に支障を抱えて暮らす期間が短い

ダメだと思ったらそう長くは生きられない


いや、それでは秋田の人がかわいそうすぎる。東北ならではの粘り腰で、なかなか「参った」を言わないのだと考えよう。

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| トウケイ | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
そうか来年か
日本国勢図会2012/13を開いて、ハッとしたことがあった。今回の統計では2010年と2011年の差分、つまり東日本大震災前後で日本がどう変わったかが示されると思ったが、多くの数字は2010年を扱っていた。差が分かるのは来年だったのだ。
もちろん、2011年の統計も一部はあるし、2010年と2011年の差だってめくるめく大スペクタクル(自分比)であるので、問題はない。

農林水産省の統計を自分で集計すれば震災前後の差を考えることは可能だが、推理小説を後ろから読むみたいな話なので、できる限り自重したい。

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| トウケイ | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
震災後初の発行
今は知らないが、昭和55年ごろ週刊少年ジャンプの発売日は公式には火曜日で東京では月曜に売っていた。その当時、前の週の金曜にジャンプを売っている本屋を知っているヤツはちょっとしたヒーローだったものだ。

6月1日発行の2012/13日本国勢図会が手に入った。3日早い入手に心が躍る。
今回のモノは東日本大震災の影響前後が分かる貴重なデータが満載。中学生のときにエッチなグラビアをめくるときと全く違う動機だが、同じくらいのどきどきでページをめくろう。睡眠時間がなくなりそうで怖い。

2012/13国勢図絵
2012/13日本国勢図会


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| トウケイ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分のルーツを尋ねる/その3
帰宅後、登記簿に書いてあることをひとつひとつ読み込んでみた。
書かれている人は全員亡くなっているワケなので推測の部分もあるが、合理的に考えていくつかのことが分かった。

曾祖父 勘四郎(1856〜1929:享年73才)
曾祖母 ツナ(1871〜1940:享年69才)

長男 勘助(1900〜1929:享年29才)

スタートはこれだけの話である。
勘四郎さんには男の子が一人しかいなかった。実はツナさんは後妻らしく、勘四郎さんには娘がいたが、ツナさんとの結婚前に嫁に行ってしまったらしい。前妻の詳細は記載がなかった。

結論から言うと、この勘助さんが祖父の実父でアイヌ娘を手込めにした食い詰め者らしい。あげくに若くして「コンクリート詰めにされて海に沈められた」どうしようもないヤツだ。
勘助の両親も早くから彼を見限っていた節がある。大切に育てた一人息子ではあったが、おそらくは若くして命を落とすか、生きながらえて家督を継いだらたちまち身上を潰すと考えたのだろう。山形から姿を消した数年後に羽振り良く戻ってきた勘助がアイヌ娘に産ませた子(祖父)を連れてきたときに、勘助の両親は息子を見限る覚悟を決めたようだ。祖父が生まれたとき、勘助とアイヌ娘はともに10代であった。

土人(当時のアイヌを意味する)の血を引く子どもなど納得はいかなかったかもしれないが、勘四郎とツナはまだ無国籍だったアイヌとの混血児に戸籍を持たせることにした。アイヌ娘を養女にしたうえで誰とも知れぬ福島県の三男坊を婿に取り、子供をもうけたことにしたうえで、1年半後に二人は離婚、勘四郎・ツナとの養子縁組も両者解消している。実の父である勘助とアイヌとの混血児は叔父と甥の関係ながら戸籍上は繋がったのである。

そのときまでにおそらくは勘助はトラブルを抱えて再び北海道へ出奔していたようだ。勘四郎とツナはもはや息子は帰ってこないと覚悟していたはずである。
その後、勘四郎は1929年4月に73才で逝去。推測の域は出ないが、ここでツナはひとつの決断をした。実の息子、勘助の死亡届を出したのである。勘助は1929年8月に北海道の恵山付近で死去したことになっている。行方不明だったものを、文字通り「コンクリート詰めにされて海に沈められた」ことにして確定したのだ。そして翌1930年4月にツナはアイヌとの混血である祖父に家督相続をさせることに決め、自らが後見人として就職(就任)している。
祖母と少年の二人暮らしは壮絶なことだったろう。少年が成人するまでは死ぬに死ねない祖母、何も事情は知らないがわがままいっぱいで育つ少年。祖父は東北電力の前身に就職したものの何を勘違いしたのかあっさり退職して芸術家を志した。20才を前にしてたくさんの弟子を取るほどになっていたからそれなりの才能はあったろうが、祖母の心痛はいかばかりだっただろう。

無事に祖父は成人し、20才の誕生日と同時に結婚をし、翌年には長男(ボクの親父)をもうけた。それを見届けるかのように、祖母は亡くなった。祖父が24才の時のことだった。
普通、そこまでしてくれたら、きちんと家督を継いで守りにはいるはずなのだが、祖父はあっさり上京をしてしまう。その辺がボクが芸術を信じられない理由となっている。芸術家という連中は、芸術のためなら全ての人は喜んで犠牲になるのが当然、と考えているように思えて仕方がないのだ。

ともあれ、祖父はその後に相当偉い芸術家になったし、それに反発した親父は勘当されたが希代の遊び人になったし、ボクは夜遊びと芸術が嫌いな食いしん坊になった。

しかしだ。気になるのはボクにとっての曾祖母、祖父にとっての実母のことである。戸籍をもうけるために一年だけ戸籍に入れてもらったあと、放り出されたらしい。その後の足取りは分からないが一時は寒河江市の慈恩寺付近の預かりになったようだ。父や叔父の話が本当であれば後に東京に出てきたことになるし、祖父の話が本当であれば、祖父から拒絶されつつ東京で90代まで生きて祖父の発展を見守り続けたことになる。
アイヌという出自だけでこんなに冷遇された人生で良かったのだろうか。曾祖母が祖父をおなかに宿したのはまだ年端もいかぬ10代のことだ。その後の人生の辛さと長さを考えたとき、哀れという他はない。今回、曾祖母のその後の足取りは分からなかった。それを知るべきかどうかは、現在考え中だ。

政治家に「日本は単一民族」と言われても腹が立つことはないのだが、半島出身の人たちがいわゆる日本人に対し団結してふっかけているのを見ると、疎ましい反面うらやましく思ったりする。アイヌでそういうまとまりをボクはみたことがない(するつもりもないけど…)。

別にボクは毎日鮭を食べたりクマを追っかけたりしているわけではないが、それでも何となくスタンダードな日本人とは発想が違うと感じている。血の濃さから言えばボクのアイヌは1/8でクォーターのさらに半分であるが、前述のとおり「変わった人」であるため、あなたの民族は何ですかと言われると、ちょっと考えたあとに国籍日本のアイヌ人と答えることにしている。少なくとも、「ボクら日本人の考えはね」なんてフレーズはウソをついているみたいでごくまれにしか使えない。

その1
その2
その3

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| タビ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分のルーツを尋ねる/その2
祖父の戸籍にはブラックボックスがあった。一時期、長万部町に本籍を置いていたようで、山形市から取り寄せた戸籍からは長万部時代の記述が一切抜けていたのだ。
戸籍を取るのに別に現地に赴く必要はないのだが、長万部で祖父がアイヌ人として暮らしていた場所がどんなところなのか興味があり、長万部町役場に行ってみた。

長万部町役場
長万部町役場

薄気味悪いまんべくんをあちこちに見ながら、町はずれの長万部町役場に到着。
すったもんだはあったものの、どうにか祖父の戸籍は取れた。

まんべくん
まんべくんはそもそも愛されることを前提としていない

戸籍は筆書き。祖父を育てた祖父の祖父など安政年間に生まれている。よくもそんな時代まで遡れたなと思うが、文字の解析は後回しにして、祖父の住んでいた場所に行ってみることにした。

当時の地番は今はなく、町役場の人たちが知恵を出し合って調べてくれた。そのうち、番外地という言葉が飛び交うようになった。
番外地か。網走刑務所じゃあるまいし、のけ者じゃないかまるで…。
そうこうするうち、祖父の本籍があった場所が現在は栄原と呼ばれていることが判明。ただし、住宅地ではないようで、厳密にここだとは言えないらしい。
「東に行って川を渡った先ですよ」
そんな説明でたどり着けるのか、と思ったが、行ってみたらまさにそんな雰囲気だった。

長万部の住宅街を抜け、国道、長万部川を越えるとその地はあった。
栄原は、字のように栄えている原っぱではない。むしろ、「栄えさせたい原っぱ」といった感じ。畑にさえなっておらず、牧草地なのか荒れ地なのか判別できない草地が広がる低湿地だった。見渡せば遠くの方にぽつぽつと農家が見えた。たぶん5キロ四方に20人は住んでいないだろう。
祖父の住んでいたころには何人のアイヌ人がここに住んでいたのだろう。そもそもアイヌ人集落があったのではなく、ここで祖父の父は開墾をしていたのだろうか。いずれにしてもうら寂しいところで、ここに住むのは自分には無理なように感じた。

上ノ追込=栄原
栄原

祖父は長万部での生活について、近所の人の話や和人との交流などは一切話してくれなかった。まだ幼かったので実母だけが相手の生活だったのかもしれないし、誰にも話したくもないような思い出があったのかもしれない。しかし、人の営みが全く感じられないこの場所からはそんなことさえ推測することができない。なぜだか涙が出てきた。

その1
その2
その3

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| タビ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分のルーツを尋ねる/その1
父方は山形県山形市の出身である。戦前のうちに東京に出てきたが、墓は天童にある。ただし、祖父はアイヌ人との間の私生児であった。
母方は山形県米沢市の隣町の出身である。背が高くて彫りが深くとても和人には見えないが、いわれは無いから和人らしい。

祖父は小さいころは北海道の長万部で生活していた。曾祖父が食い詰め者で、借金で山形にいられなくなって、ヒト山当てるために長万部でアズキか何かを栽培していたときに、近所のアイヌ人の娘を手込めにして生まれたのが祖父ということらしい。その後、曾祖父の成功により祖父は山形に連れてこられたものの、曾祖父はまたもや山形にいられなくなり、北海道へ行ってしまった。その後は音信不通となったが、おそらく向こうでもトラブルを起こして、今風にいうなら「コンクリート詰めにされて海に沈められた」のだと考えられている。祖父は祖父の祖父母に育てられた。

酒が入って機嫌のいいとき、祖父はアイヌ人の生活をいろいろしてくれた。ヒグマの毛皮にくるまると真冬でも暖かくて裸で寝ても平気であったとか、笹の葉で吹いた小屋の中は真っ暗で焚き火の明かりに照らされる大人の顔が怖かったとか…。しかし、基本的にはアイヌ時代の話は祖父にとって忘れたい記憶であったように思う。
実母は、終生、祖父の近くに現れたそうだ。ボクの親父や叔父が子どもの時に明らかに和人ではないおばあさんがこっちを見ていたことがよくあったと聞いたことがある。そのことは祖父も知っていたようだが、頑として親子の名乗りを上げなかった。祖父は実母を捨てることで日本人としてのアイデンティティを得ようとしたのだろう。

祖父の実母は相当長生きしたらしい。ボクが20才、祖父が75才ぐらいの時、やはり酒で機嫌が良かったときに「オレの生みの母はまだ生きていて、おまえのうちの近くに住んでいる」と祖父がボクに語ったことがある。事実なら祖父の実母は90を超えていたことになる。そのときでさえ祖父は実母と親子の名乗りを上げるつもりはないと明言していたが、だったら何で消息を知っているのかが不思議であった。

20年前に叔父が死んだ際、戸籍謄本を見て仰天したことがある。祖父の戸籍が生まれてから数年の間にあっちに養子、こっちに養子とたらい回しにされ、名字まで似てるけど違う何かに変わったり戻ったりしていた。
体が弱くてきちんと育つか分からなかったので戸籍に入れるのを見合わせていた、そう祖父は言い訳をしていたが、出自が出自だけにそれだけが理由とは信じがたかった。本人はともかく、周囲も祖父を日本人にするために苦労をしたのだろう。

数年前その祖父も他界した。ウチは超女系で、気づけば名字を継ぐ男子はボクだけになってしまった。家制度などとっくに過去のモノとはなっているが、とりあえず本家であるらしいウチの家の物語を引き継ぐも捨て去るもボク次第。そうすると、不思議なのモノで、とりあえずは自分のルーツを知っておこうという考えが沸々と湧いてきた。

まずは、長万部町役場に飛んだ。

長万部駅
長万部駅

その1
その2
その3

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| タビ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
鬼死骸
国道4号線が岩手県境を越えたあたりに、一関市街へと分岐する県道がある。その県道へ入ってすぐのあたりの地名が鬼死骸。オニシガイと読むらしい。

12081411鬼死骸
鬼死骸

とは坂上田村麻呂に討伐された大武丸というアイヌの酋長のことらしい。
坂上田村麻呂は大武丸たちをこのあたりで討ち取り、死骸を埋めたのだそうだ。埋めた死骸の上に置いた石と伝わる鬼石、その石を取ってきた場所から清水が湧いた鬼石井など、当時の戦いにまつわるものが今も残されている。
岩手県には坂上田村麻呂とアイヌとの戦いにまつわる遺跡や物語が多い。たいていは討伐したとか平定したとかいうフレーズで紹介されているのだが、それはあまりにも一方的な話だ。アイヌからしたら土地を取り上げられたわけで、その後、同化したのか皆殺しにあったのかの記述はないが、もう、東北には何世紀に渡り住み続けてきたというアイヌ人はいない。

全部追い出してしまって今はもういないからアイヌに気兼ねしなくていいという話になるのだろうか。この件について妙に坂上田村麻呂の肩を持たないのは、1/8というもののボクにアイヌの血が流れていて、土人としてのリアルな苦労を祖父から聞かされて育っているからだ。1000年も前のことにチクチクと心が痛むのだが、今となってはどうしようもない。

JUGEMテーマ:旅行
| チメイ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
全米ヨーヨーチャンピオン的な?
ちびまる子ちゃんの話で、コカコーラのヨーヨーが流行ったときに日本中で全米ヨーヨーチャンピオンがやってくるイベントが行われた、という話があった。いったい何人の全米チャンピオンが当時の日本を駆けめぐったのだろう。
このエピソードは自分もドンぴしゃの世代で、実体験として記憶にある。昭和51年ごろのことだったと思う。

調べものをしていたら、そんなことを彷彿とさせる事態に直面。ゲンジボタルの北限があちこちにあるのだ。

ゲンジボタルの北限は青森県横浜町であると思うが、他にも宮城県栗原市沢辺や宮城県登米市東和町の鱒渕川もゲンジボタルの北限とされていて、それぞれが国の天然記念物になっているようだ。
国がいい加減なのか、あとから北限が更新されたのか、イベントはいっぱいあった方が地域振興になるからあえて乱発したのか、その辺はよく分からない。

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